ぶりきの金魚   作:虎林はんじん

 



 Scene @  出会い

とある工場の街にある、西日だけが差し込む古ぼけたアパートに、マチコはひっそりと暮らしていた。
マチコは幼い頃から母親と二人だけで暮らしてきたが、その母親は少し前に他界していて、今では誰一人近しい者はいなかった。
慎ましい生活ではあったが、母親の生命保険のお陰で、平穏な毎日を送っていた。

ある日、マチコを訪ねて一人の男(ゴロー)がアパートにやって来る。

  ゴロー  あの……スミマセン。スミマセン、お留守でしょうか?
  マチコ  帰ってください!
  ゴロー  えっ!?
  マチコ  アタシ、そんな女じゃありません!
  ゴロー  えっ?そんな女って?
  マチコ  どうするつもりなの?
  ゴロー  どうするって…何を?
  マチコ  とぼけないで!!
  ゴロー  あの…ワタシは別に怪しい者じゃありません。ただ、ミシンの話を聞いて頂きたくてですね……
  マチコ  ウソ!あなたもそうやって結局アタシのこと騙すんだわ。もう信じない、言葉だけの優しさなんて……

ミシンのセールスだというゴローを、必死に追い返すマチコであった。
だが、それから数日後の、ある遠雷の鳴り響く雨の日に、ゴローは再びやって来たのだった。

  マチコ  いつもなら、ぼんやりと西日だけが差し込むアパートの小さな窓も、昨夜から降り続いた雨に濡れていました。
      冷えきったガラス越しに見える雨の街は、なぜだか酷く寂しそうで、いつもならけたたましく響くトラックの音や工場の音、
       忙しなく猥雑なざわめきも、広場で遊ぶ子供達のはしゃぐ声も、ガラスを滑り落ちる雨の音にかき消されて、何だか全部、
      遠い昔の事のように、静かな雨の午後でした……
        そんな十二月の冷たい雨の中を、あの人は再びやって来ました。まるで遠い過去から、アタシを訪ねて来た古い友人
      みたいに、あの人はやって来ました。
        あの人は……ミシンを売っていました。


雨が止むまで、ホンの少しだけ雨宿りさせてほしいというゴロー。一人きりで雷鳴に怯えていたマチコ。
古びたアパートのドアを挟んで、寄り添うように座った二人……
雷鳴の轟く中、いつしか二人の心は通い始めるのだった。

  ゴロー  ワタシ、この仕事始めて三年になるんですけど、毎日歩くのが仕事なんです。
              お陰でこの町の事を隅々まで分かったし、あちこち知り合いも出来ました。ワタシは、どっちかっていうとアレなものだから、
        そんな知り合いでも、結構嬉しかったりするんですよね。だから、この仕事、結構嫌いじゃ無いんです。
        ……でも、雨の日は辛いです……いや、髪が濡れるのが嫌だとか、傘を差すのが面倒だとか、そういうんじゃ無いんです……
       ただ、こんな雨の日には、歩きまくって擦り減った革靴のつま先から、雨がじっとりと染み込んでくるのが辛いんです……
              夏の通り雨なら、笑って過ごせるけれど、十二月の雨は泣きたくなるような冷たさです。
                 つま先から少しずつ染み込んだ雨は、だんだんと足の感覚を鈍らせ、やがて、全身の神経を凍らせて行くんです。
               そんな時には、鈍ってゆく感覚と戦いながら、強く思うんです・・・熱い心があったならなあって・・・熱く燃えた心で、守るべきモノ
       があったなら、つま先から伝わる冷たさに打ち勝てるのに・・・って。
        でも、冷たさはどんどん伝わってきます・・・指先が凍りつき、脚が凍りつき、胸が凍りついて行きます……十二月の雨に凍えた
       体で、ワタシは一体、何処へ向かっているんだろう?誰がワタシなんかを待っていてくれるんだろう……たまらなく不安になってくる
        んです……だから、雨の日は……


突然、目眩に襲われて、ゴローが倒れた。その音に驚いて思わずドアを開けるマチコ。

  マチコ  どうしたんですか!?……大丈夫ですか?ミシン屋さん。
  ゴロー  大丈夫です……ただちょっと目眩がしただけですから……きっと雨のせいで、体が冷えたんでしょう。
  マチコ  そうですか……大変なんですね、お仕事。
  ゴロー  ええ、まあ。でも、どんなに大変でも、ワタシは歩きたいんです。いや、歩かずにはいられないんです。
  マチコ  どうして? 雨に濡れて、寒い思いをして、熱だってあるのに……何の為に歩き続けるって言うの?バカみたい……
  ゴロー  そうですね。バカみたいですね。自分でもちょっとそう思います……でも、ワタシは歩かずにはいられないんです!


ゴローはおぼつかない足取りで、再び雨上がりの街へ帰っていった。

  マチコ  このままずっと、永遠に雨が続けば良いのに・・・まさか本気でそんなことを思うほど、アタシは悲しい女じゃなかった事に、
      今更ながら驚いています・・・まるで、深くて冷たい雨の河に迷い込んでしまった金魚みたいに、ただ流されて行くのが運命と諦め
       きってていたアタシのことを、あの人は優しくすくってくれました。懐かしい金魚鉢にそっと移してくれたのです。
        アタシは本当は心の中で、ずっとそんな時を待っていました。
        ただ穏やかで、日向の匂いがするその小さな鉢の中で、アタシはただ、あの人の為に赤いドレスを身に纏い、ささやかな人生
      を生きるのです……そんな時をアタシは待っていました。
       (金魚を愛しそうに眺めて)少し巻いた、あの人の前髪からこぼれ落ちた十二月の冷たい雨の滴が、ゆっくりと伝い落ちるのと
      同じ早さで、凍り付いたアタシの時計は動き始めました……


 Scene A   毒 薬

ある日、マチコの元へ遠縁のサチエがやって来る。
サチエはホストに貢ぐために、昼は保険の外交員、夜は水商売をしていた。
遠縁ではあったが、近しい親戚のいないマチコにとっては唯一頼れる存在であり、マチコの『身元保証人』でもあった。

  サチエ  いざって時に頼りになるのはやっぱ保険なのよォ。アンタだってお母さんの保険のお陰でこうして気ままな一人暮らし出来るんだしさァ。
       やっぱり、保険って良いわよねェ〜。ハイ、これ契約書ね……え?契約内容?良いの良いのそんなこと。全部アタシに任せて!アハハ。


そんなサチエに勧められるまま、マチコは自分の生命保険の契約書にサインをするのだった。
しかし、サチエには恐ろしい策略があった。それは『マチコに多額の保険金を掛けて薬殺し、保険金をせしめる』ことであった。

  サチエ  ヤダ、ちょっとアンタ痩せたんじゃない?もう、仕方無いわねェ……ハイ、これ飲んで!
  マチコ  なんですか、それ?
  サチエ  ビタミン剤よ。これは良いわよ〜。これ飲んでいればバッチリだから。絶対お薦め。ねっ、あげるから飲みなさい。


別れ際、サチエはマチコに一本の瓶を手渡した。何も知らずにマチコが受け取ったそれは、強力な『毒薬の瓶』であった。


 Scene B   未来の糸

数日後、マチコの部屋にはミシンがあった。
ゴローからミシンの手ほどきを受けるマチコ。いつしか、ゴローの正直でひたむきな生き様に惹かれて行くマチコであった。

  ゴロー  ヨ〜シ、フィニッシュ! 上手いですよ、マチコさん大分上達しましたね。
  マチコ  (縫った布をかざして)フウーッ。コレなら大丈夫かしら?
  ゴロー  バッチリです。もう使い方覚えましたね。(布をかざして見て)ホラ、繋がってますよ、ちゃーんと未来の糸が。
  マチコ  未来の糸?
  ゴロー  そうです。こっちの方は、もうこのまま繋がってしまったままですから、人間の一生で言えばつまり「過去」のことですよね。
       だから、このまだ繋いで無いのは「未来」ってことになります。そして、この一番先端に出ている一本の糸が、未来を繋ぐ
       『未来の糸』。まあ、単なるコジツケですけどね。そんな風に考えると単調な仕事も飽きないでしょう?
  マチコ  (端切れを手にとって)未来?これが?
  ゴロー  はい。
  マチコ  端切れサイズの小さなアタシの未来……何だか、心許ないわね。
  ゴロー  誰にも、明日の事さえ分からないものですからね。
  マチコ  もし繋ぐ布が無くなってしまったら?
  ゴロー  大丈夫、無くなりはしません。ワタシがいくらだって持って来ます。街中を探し回って、必ず。
  マチコ  ……そう、良かった。

 Scene C   フラッシュバック

トシオがやって来る。
トシオは、マチコのかつての 『男』 であったが、「遠く離れたボリビアで、どでかい金鉱石を掘り当てる!」実現するあてのない夢を追い続けていた。
マチコは、そんなトシオから逃げる様に、このアパートに身を隠していたのだ。

  マチコ  (驚いて)・・・どうして?どうしてここが?
  トシオ  (部屋の中を歩き回る)ヨッ。随分探したんだぜ。居なくなるなら、そう言ってくれなくちゃ困るだろ?
  マチコ  知らなかったんだもの。アンタが日本に帰って来てたなんて。いつ?
  トシオ  一月位になるかなあ。お前を訪ねて病院に行ったら、もう退院しましたって言われてサ。参ったぜ。
  マチコ  ……
  トシオ  いつ退院したんだ?
  マチコ  ……半年前。
  トシオ  そうかい。まさか、こんな所に雲隠れしてるなんてなあ。
  マチコ  別に隠れてなんか……
  トシオ  会いたかったぜ。(マチコに手を掛けようとする)
  マチコ  止してください。

かつてマチコは、トシオの夢物語に振り回され、利用され、手持ちのお金のほとんどをだまし取られていた。
そして、トシオは今度もまた、マチコに金の無心に来たのだった。

  マチコ  お金なんて無いわ! みんなアンタが持っていったもの。
  トシオ  またまたァ、そう出し惜しみすんなって。お前だって良い暮らししてェだろ? な、今度こそ間違いねえんだよ。頼む!!


マチコが借金を断ると、トシオは怒り狂い、マチコを無理矢理押さえつけて麻薬(コカイン)の注射を打った!!
必死の抵抗むなしく、ぐったりと倒れこむマチコ。

  トシオ  ヘヘヘ……続きがほしけりゃ今夜9時に川向こうの倉庫まで3百万持ってこい! いいな、遅れンじゃねえぞ!!

トシオ、部屋中から金目の物を物色するが見あたらず、仕方無く置いてあった『あの瓶』 を持って出て行った。

  マチコ  (愛しそうに布に顔を近づけ) 思えば、母は毎日ミシンを踏んでいました。
       眠れぬ雨の夜、細く開いた襖越しに見た母の顔・・・白くて華奢な指から滑りだし、規則正しく送り込まれて行く白い布……
        果てしなく繋がった白い過去と、細くはかない一本の糸でつながれてゆく、端切れの様な小さな小さな未来……
       ささやかな裸電球のフィラメントの、ほの暗い光りに照らされた母の横顔は、いつも涙で濡れているみたいに見えました……
        私はそんな母が嫌いだった!強がってみせるミシンの音が嫌いだった……
       規則正しく、夜の闇に流れる、行く当てのない行進曲……十二月の雨の街を、ビショビショに濡れた革靴で歩きつづけている、
       あの人がくれたささやかな未来……アタシのもう一つの未来……
        (マチコ、布きれを纏って楽しそうにクルクル回る。やがて倒れる。)

ゴローが来る。
倒れているマチコを見て、何があったのか問いただすゴロー。
しかし、マチコは答えることが出来なかった。

  マチコ  もうほっといて!アタシに構わないで。こんなアタシになんか……もう、ダメなんだから!
  ゴロー  ダメ? ダメって何です? 何がダメなんですか? 
  マチコ  何でも無いの。
  ゴロー  何でもないこと無いでしょう?
  マチコ  ……帰って。
  ゴロー  えっ?
  マチコ  お願い、もう帰ってください……
  (ゴロー、上手く言葉が見つからず無念そうに出て行く。)
  マチコ  (金魚を拾って見つめ)さよなら……ゴローさん……


 Scene D   旅立ち

霧の夜。大きな港の近くの倉庫。

トシオがイライラとマチコを待っている。
コートから煙草を取り出すが空箱であった。ポケットを探っていると、マチコの所から奪ってきた瓶があることに気づき、仕方なくそれをボリボリと食べ始める。
そこへ、マチコがやって来る。

  トシオ  ヨオッ!待ってたぜ、遅かったじゃねえか。この先に船を待たせて有るんだ。さあ、早く金をくれよ。 
  マチコ  人で無し。 
  トシオ  何だと? 
  マチコ  アンタは人でなしだわ。
  トシオ  オイオイ、人聞き悪いな。お前から借りた金は全部俺達の未来の為に投資してるんだぜ。全部、お前の為なんだ。
  マチコ  ウソよ。どうせ全部賭け事につぎ込んだんでしょう?そんなウソもう沢山!!
  トシオ  うるせえ!つべこべ言ってねえで、さっさと金を出せ!
  マチコ  嫌よ。もうアンタなんかにあげるお金は一銭も持ってない。
  トシオ  アア!?冗談だろ? 時間が無えんだ、もったいぶらずに早く出せよ!
  マチコ  無って言ってるでしょう。
  トシオ  ふざけるな!金がなきゃあ、サラ金にでも行って借りてこい! じゃなきゃ、体でも売ってつくって来い! !
  マチコ  酷い……そんな酷いことがよく言えるわね。 
  トシオ  何でも良いから金出せよ。(麻薬の袋を出す)お前、コイツが欲しくて来たんだろ?どうなんだ?欲しいんだろ?え?
      だったら、金だ。こいつが欲しいなら三百万出すんだよ。ホラホラ!
 

マチコ、懐から包丁を出す。 

  トシオ  (一瞬ひるむ)何の真似だ?冗談は止めろよ。 
  マチコ  近寄らないで! 
  トシオ  オイ、止せよ。 
  マチコ  来ないで!ホントに刺すわよ。 
  トシオ  止めとけって、お前に俺が刺せるワケねえだろ? 
  マチコ  信じたのに・・・アンタを信じたのに! 

興奮するマチコをなだめようと、あれこれセリフを並べるトシオ。

  マチコ  もう、終わりにしましょう……

包丁の刃先をトシオに向ける。

  トシオ  オイ、止めろよ……マジかよ? 冗談だろ? 悪かった。な、ホントに俺が悪かった…… よせって……ヤメロ〜!!!

マチコの包丁は、トシオの脇腹を突き刺した!!  

  トシオ  グワァ〜! 痛ってえ!!
  マチコ  キャーッ!!(動転してへたり込む)

……と、思ったら……

  トシオ  痛てえ……切れたじゃねえかよォ!(指先にかすり傷を負っただけ)
        ちっくしょ〜、金がねえテメエなんかには用はねえ。ぶっ殺してやる! 死ねェ!!


トシオ、包丁を振りかざす。 と、そこへゴローが飛びこんでくる。

  ゴロー  止めるんだ、中村ァ! 
  トシオ  (ゴローを見て)何だお前……あ、ミシン屋のオヤジ、何しに来やがった? 
  ゴロー  警察だ。(手帳を出す)中村トシオだな?麻薬所持及び殺人未遂の容疑で、お前を逮捕する! 
  トシオ  警察ゥ?……それじゃあ、もしかしてアンタ、刑事だったのか?
  ゴロー  そうだ。 麻薬所持の現行犯だ、観念しろ。 
  トシオ  ……畜生!こうなりゃあ仕方ねえ。二人まとめて始末してやる!
  ゴロー  無駄な抵抗は止めるんだ。もうすぐ本署から応援が来る。お前は逃げられない! 
  トシオ  逃げるさ。お前ら二人を始末したら、地球の裏側までな。もうちゃんと手筈はついてる。ハハハ……クタバレ!!


ゴローとトシオ、激しく揉み合いになる。と、突然……

  トシオ  ウッ……グエーッ!!

トシオ、突然苦しみ悶えて倒れ、動かなくなる。 
呆気にとられて顔を見合わせる二人。
ゴロー、手際よくトシオの状態を確認する。マチコ、トシオが投げ捨てた空の瓶を見つける。

  マチコ  あ!これ……アタシの…… 
  ゴロー  エッ? 何ですか?
  マチコ  これ、親戚のサチエさんがアタシにくれたビタミン剤。 この人全部飲んじゃった…… 
  ゴロー  マチコさんも、それ飲んだんですか? 
  マチコ  いいえ、アタシもらったきり忘れてたから。 
  ゴロー  ちょっと貸して……(調べて)もしかすると、コレ…毒薬かも知れませんね。 
  マチコ  キャーッ。
   (トシオを見る二人) 
  マチコ  じゃあ、やっぱりこの人、死んじゃったのかしら……どうしよう…… 
  ゴロー  どうしようって……逃げましょう!逃げるしか無いでしょう。 
  マチコ  エッ?でも……良いんですか?アナタは刑事さんなのに。
  ゴロー  良いんです。(頭を掻きながら)ウソなんですよ、刑事なんて。 三年前に犯人を逃がしてクビになりました。 
  マチコ  エッ?
  ゴロー  さあ、行きましょうか?この男の仲間が来ないうちに。 
  マチコ  ダメよ……もうこれ以上、ゴローさんに迷惑かけられない。 
  ゴロー  迷惑なんて、どうしてそんな事を? 
  マチコ  聞いてゴローさん、アタシ……覚醒剤中毒で捕まって、半年前まで医療刑務所にいたの……それに…… 
  ゴロー  良いです。それ以上、聞かなくても。 マチコさんが悲まなきゃいけない様な話はしなくたって良いんです。 
  マチコ  なぜ……なぜ、こんなアタシにそんなに優しくしてくれるの?……アタシちっとも綺麗じゃないのに。(金魚を見つめて)ホラ見て、
      ゴローさんにもらった金魚……こんなにも塗装だって剥げてるし、形だってイビツなの……でも、それでも泳げるんじゃ無いかと思った……
      どんな冷たい河だって泳いで行けると信じられたの……でも、ダメだった。アタシはやっぱり本物の金魚にはなれなかった。踏まれて、
      汚されて、捨てられて……暗い雨の河を、ただ流されるだけのブリキの金魚だった。
       プカプカ、浮いているだけで精一杯。ただ流されて行くだけしか出来ないのよ……そしていつか、誰か知らない男(ひと)の手に拾って
      もらえるのを、ただ夢に見るだけ……ただそれだけの女なの……だから良いの。もう良いのよ!
  ゴロー  良かないです!マチコさんは、ちゃんと償ったんです。そうでしょう?悪いのは全部、この中村トシオなんです。この男がコカインを
      密輸しなけりゃ、あんな事にはならなかったんだ。 
  マチコ  どうして……どうしてそれを? 
  ゴロー  やっぱり、覚えてないんですね……ワタシの顔。 
  マチコ  エッ? 
  ゴロー  あの事件で、コカイン受け渡しの重要参考人だったアナタを、護送途中に逃がしたのは、ワタシなんです。 
  マチコ  エッ……? 
  ゴロー  何ヶ月も張り込んで、やっと逮捕にこぎ着けて、挙げ句に容疑者をわざと逃がした……当然、ワタシは警察をクビになりました。 
  マチコ  そんな…まさか…… 
  ゴロー  (遮って)いや、良いんです。ワタシは、逃げて欲しくてアナタを解放したんですから。だから、後悔なんて全然してません。
      むしろ、誇りに思ってます。でも、残念ながら上手く逃がしてあげられなかった……それが悔しくて、あれからずっとアナタを探して
      いたんです。そして、一月前、アナタの住む、あの部屋を見つけたんです。すぐに会いに行きたかった。でも、勇気が無くて……

そこへ、パトカーのサイレンが聞こえてくる。

    ゴロー  パトカーだ…… 
  マチコ  ゴローさん、逃げて。ここにいたら、アナタまで捕まってしまうわ。 
  ゴロー  いいや、ワタシ一人で逃げるわけにはいきません。
  マチコ  私のことなんか良いの。お願い、逃げて。
  ゴロー  一緒に行きましょう。今ならまだやり直せる。
  マチコ  ダメよ……ワタシにはもうやり直す事なんて出来ないわ。
  ゴロー  出来ますよ。マチコさん、ミシン掛け出来るようになったじゃないですか。どこかで縫い間違ったら、縫い直せば良いんです。
       間違った所から、糸をほどいてもう一度。何度だってやり直すんです!!さあ、行きましょう!早く!!


ゴロー、マチコの手を取って駆け出す。
パトカーのサイレンが一際大きくなる。


 Scene E   朝焼けの街

朝焼けの丘。マチコが一人たたずんでいる。

  マチコ  それから私達は、走って走って、どれくらい走ったのか、分からなくなるくらい夜の街を走り続けました。
       アタシは、ゴローさんの背中を見失わない様に、必死でついて行きました。いくつもの路地を抜け、見知らぬ角を曲がるたびに、
       目の前に拡がって行く新しい風景……いつかゴローさんが話してくれた、ワクワクする様な不思議な気持ちが、少しだけ分かった
       様な気がしました。「やっぱり、絶望なんてなかったのね。」……そう言おうとして、ゴローさんがいないのに気がつきました。
       ずっと今まで、前を走っていたゴローさんの背中が見つからない……それっきり、ゴローさんに合うことはありませんでした。
        あれから暫くして、あの人がまだ生きていて、麻薬密売で捕まったとニュースで知りました。 
 
       アタシは知らない街で、新しい生活を始めました。
        あの夜、心細くて、一人泣きながら登った丘の上に再び立って、少しずつ明るんで行く街を眺めています。
       未来は、相変わらず小さな小さな端切れサイズですが、アタシは今、確かにここにいます。
        ……そして、前よりずっとミシン掛けも上手になりました



 《 終 劇 》